西村晃の伝言板
2025-11-28
2025-11-28
| <<前の記事 |
世の中に大きな市場が眠っていることを誰も気が付かない。
そこに新しい商品やサービスが投入されるとたちまち大きな市場が形成され二番手三番手の参入もおきてくる。
「ミゼットハウス」もそんなビジネスだった。
ミゼットハウスと言っても知らない人が多いかもしれない。
ミゼットとは戦後ダイハツが発売してヒットしたオート三輪車。手軽な乗り物として人気があり、手軽な住宅を作ろうという大和ハウス工業が自社の新商品につけた名前である。
昭和30年代。
初夏のある日、アユ釣りをしていた石橋信夫は、たくさんの子どもが川べりで遊んで夕方になってもなかなか帰ろうとしないことに気づき声をかけると、「家が狭くて居場所がないから外で遊んでいる」と答えた。
「そうか!」この瞬間、石橋の頭に妙案が浮かぶ。子供たちの勉強部屋の商品化を思い付いたのだ。石橋は開発担当者に「3時間で建てられ坪単価を4万円以下に抑える」という課題をだした。
当時の住宅は新築も増築も「木造」の「請負」で建てるのが常識、「鉄骨プレハブ建築」は常識外れ。試行錯誤を重ね、ついに「ミゼットハウス」が誕生する。当時、建築材料として流通し始めた軽量形鋼と、オイルテンパー(油を浸透させて加熱処理)したハードボードを使ったパネル工法を採用、3坪以下に抑えることで建築確認を不要にし、工場で作ったらすぐトラックに積んで工事現場へ届けられるようにした。
販売価格は家電製品の慣習にならって、4畳半タイプ:10万8,000円、6畳タイプ:11万8,000円と端数を切る「商品らしい」値付けにし、「11万円で家が建つ」というキャッチフレーズにした。
「ミゼットハウス」は1959年10月、全国27カ所の百貨店で発売するとすぐに話題となり、アイデア商品としてマスコミもこぞって取り上げた。
当時の常識では、住宅とは考えにくいこの商品は売れるはずはない、というのが建築業界の大半の見方だったが、多くの家庭に受け入れられヒット商品となる。
「ミゼットハウス」は、住宅問題を解消する子ども部屋にとどまらなかった。トイレを付けてほしい、台所がほしいという要望を受け、新婚世帯向けの「スーパーミゼットハウス」の開発につながり、その後本格的なプレハブ住宅へと発展してゆく。
この成功によりプレハブ住宅は日本のオリジナル商品となり、今や世界に広がっている。